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(以下の撮影日は特に説明がなければ旅行日) 10月30日(日)多度津〜窪川間33D特急南風3号(その2) 33Dは須崎では12時14分に到着して、12時20分に出発する。その間に46Dと退避する。その後、窪川でも12分停車するが、これはなんと、普通列車320Dを退避する。ずいぶんのんびりした列車ではあるが、この33Dの乗車時間も残り少なくなってきた。特に急ぐこともないし、我々はアンパンマン列車に乗車するのが目的だから、別に退避に時間がかかろうと、定時に走ってくれればかまわない。それもあと30分ほどである。須崎での停車中にかずまると一旦外に出て、来年の年賀状の写真撮影をする。この駅には「高知県国鉄発祥の地、大正13年3月30日須崎〜日下間開業」という記念プレートがあるという。先ほどからしつこく言っているが、多分、この付近で産出される石灰が目的だったのだろうが、高知県津野町から梼原、愛媛県久万高原町から西予市大野ヶ原へと広がる四国カルストへの入口となっている。石灰に縁のある街である。
(左:須崎で46Dを退避、この場所が平成18年年賀状である!、右:土佐新荘〜安和間を走る) その津野方面へと向かう国道197号は、次の土佐新荘駅を過ぎると渡る新荘川を遡る。ここから、国道197号で鬼北町日吉、さらに国道320号で宇和島までは完全2車線になって、夜間制限速度いっぱいで走り続ければ約2時間で行ける。鉄道で行けば、予土線経由で、これから3時間以上かかる。 (土佐新荘付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >> 新荘川沿いに遡っていくほうが平野が多いのだが、線路はこれから太平洋沿いに国道56号に並行して走る。土讃線の中で唯一海岸が間近に迫る場所でもある。それにしても、須崎と中土佐町の間の移動は昔は大変だったろうと思う。須崎市の西南端である安和までの間の陸地には山地が居座り、そのまま海へと断崖絶壁に近い格好で落ちている。須崎は高知県での国鉄発祥の地だったのだろうが、線路はそのまま北東方向へと伸びていってしまい、逆方向である中土佐町の土佐久礼駅が開業したのは、昭和14年11月15日であり、長らく、高松発須崎行きの列車が走っていたのであろう。国道56号もかつては細い道が続いていたのであろう。旧道がその山の上を走っていて、そこからの眺めが鉄道撮影のスポットとして知られている。 そこから隣の中土佐町までは、現在でも細い道が続いているだけで、線路は国道とともに山中の焼坂峠を越えている。この後、一気に四万十川上流域の窪川へ上り詰めることが判っているだけに、安和から山中に入って、また海岸部へと戻ってくると、思わず何で?と思ってしまう。 土佐久礼12時30分発。おそらくは、須崎以南は海上交通の方が活発だったのであろう。同じ中土佐町の上ノ加江までも山が海に迫っており、さらに南にある矢井賀甲までは海岸沿いの道すらなく、上ノ加江から上ノ加江中学経由であとは窪川まで登っていく細い道と、上ノ加江から志和地経由で矢井賀甲へ向かう山道が、なんと山中でトンネルを介して立体交差している。両者を結ぶ道は本当に細い道で、自動車が通れるかどうか判らない道があるだけである。この辺りは、山の上に四万十川上流域の大きな盆地があることも信じられないような、山が海に落ち込むような崖下に集落がへばりついている、そんなところなのであろう。
(左:土佐新荘〜安和間を走る、右:窪川駅での33Dと4843D) さて、土佐久礼からは、鉄道と国道は別々の谷に沿って、いよいよ窪川へ、つまり四万十川の上流域へと登っていく。国道のほうは、大坂谷川の谷に沿って七子峠を越える。途中いくつも細い道が並行しているから、かつての細い道を改修した峠であることがわかる。鉄道はひとつ南の谷を登っていく。一瞬太平洋が見えるが、今度は木々に邪魔されながら、そして、カーブを曲がると深い谷を登っていく。上り詰めたところで、トンネルで次の谷へと4度ほど、綱渡りのようにして高度を稼ぎ、最後に影野トンネルで、四万十川上流域の仁井田川へと出て、影野を通過する。 この影野駅の開業は昭和22年10月20日で、窪川駅が開業する昭和26年11月12日までの約4年間は終着駅であって、かつては転車台もあったという。四万十川水系へ出たことで、もうすぐ窪川に到着するイメージが湧くが、ここから窪川までは3駅8・3キロあり、四万十川本流もまだ遠い。しかし、多度津からの長旅が終わりに近づいたことには違いがない。四万十川はついに窪川までは本流を見せることはなく、12時45分窪川に到着する。約3時間の旅が終了する。 10月30日(日)窪川〜宇和島間4843D普通列車 窪川からはひとつ先の若井までが土佐くろしお鉄道で、そこからは予土線になるが、列車は全て窪川から発車する。土佐くろしお鉄道は現在は宿毛駅の事故により、隣の東宿毛までの運転となっているが、11月1日からは宿毛駅発となる。予土線は普通列車のみの運行で、必要最小限の列車本数しかない。しかも、日中は全てトイレなしのキハ32又はキハ54で運転されており、かずまると乗車する場合は宇和島までの2時間はトイレが心配である。関口知宏さんは十川駅で駅のトイレに行かせてもらっていたが、そんなことは滅多にないだろうけど、過度に緊張して、10分おきくらいに行きたくなったらどうしよう、という緊張感もある。
(左:土佐大正〜土佐昭和間の四万十川、右:同区間で関口知宏さんの乗ったトロッコ列車がテレビに映ったところ、右端付近の道路に中継車が待機して、列車の風景を撮影しており、私が手を振っていたのも映っていた) さて、4843Dは定刻13時22分に窪川を出発する。窪川を出ると、すぐに四万十川本流が見えるようになる。周知のとおり、四万十川は四万十市の旧中村市を河口とするが、まっすぐに流れていないため、旧中村線(現土佐くろしお鉄道)も国道も再び海岸沿いにある佐賀町をめざして急坂を下っていく。国道は窪川町の中心部を流れる吉見川に沿って走り、低い分水嶺を越えて若井川へと出る。そして、そこからオメガループを描いて、伊与木川へと出て、佐賀町荷稲へと向かう。 (窪川付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >> 一方、線路は、四万十川に沿って若井を過ぎ、大向で四万十川が大きく蛇行するところで、それにかまっていられないとばかりに一気にトンネルに入る。昭和38年12月18日に土佐佐賀まで開業したが、この時代になると、自然に逆らって、トンネルや鉄橋で情け容赦なく抜けていく。従って、予土線の江川崎までは、四万十川の景色はすばらしいが、線路を敷設した苦労が地図から見えてこない。予讃線の内山新線でも感じるが、時代は変わったものだと思う。 それでも、川奥信号場の線路敷設は見事である。若井トンネルで谷を一気に2つ越して、川奥の最上流へと出る。このあたりで標高170メートル。そこに川奥信号場がある。ここは信号場でしかないが、これが駅だったら到達困難として、秘境駅にランキングされるであろう。しかし、あまりにも何もなさすぎて、駅になることもない。開業がもっと早かったら、と思う。川奥信号場では行き違い設備の他に予土線との分岐があり、下り方にシーサスダブルクロスがある。ここで、4843Dは停車して、4840Dを待つ。4840Dはトロッコを併結しており、半年前に関口知宏さんご一行と乗車したのは記憶に新しい。そこから土佐くろしお鉄道は右へと大きく曲がり、270度回転して、信号場の南側へと姿を現す。これで一気に50メートルの標高差を稼ぐ。あとはそのまま、川奥の集落を抜け、荷稲で国道と再会する。
(左:西ヶ方〜真土間の崩れた沈下橋、右:宇和島駅車両基地【2005.10.28撮影】) 我々の乗る予土線は、川奥信号場を直進して、トンネルに入って、家地川へと出る。そこに、巨大な堰とともに、四万十川が待ち構えていて、後は江川崎まで併走する。ただ、予土線の若井〜江川崎間が開通したのは昭和49年3月1日、もはや自然とは同居しない敷設をしており、四万十川の蛇行を無視するかのように、一気に江川崎へと向かう。その様子は、別途記載しているので、そちらを参考にしてください。 (予土線若井〜江川崎間の各駅の様子はこちらへ) > 記事へ移動 さて、昨年のこの旅行のときに、崩れた沈下橋を撮影していたが、実はこの場所がどこなのか忘れて、今年2月の旅行時にはかずまるに嘘つき呼ばわりされた。結局は、撮影したデジカメの撮影記録(プロパティで判る)で時間を特定し(ただし、少々実時間とズレていた)、西ヶ方〜真土間であることを突き詰めた。半年前は関口知宏さんご一行のテレビカメラの回る中だったので、往路はかずまるに説明しても上の空、帰りは熟睡だったため、結局見れずじまい。 そこで、今回はと思っていたのだが、なんと今回も窪川を出て30分もしないうちに熟睡してしまった。仕方がないので、再び写真だけを撮って、かずまるに見せることにした。それで納得するほうもするほうだと思うが。 愛媛県に入って、松丸、出目、近永と停車する。出目駅は国道320号に近い。従って、鬼北町日吉方面への旧国鉄バスが走っていたところである。その後、宇和島バスに移管され現在に至っているが、本数が減ってきている。このあたりの国道は改良された。それは良いことであるが、自家用車至上世界の典型である。一家で運転免許者プラス1台(農耕用軽トラック)の世界がそこにある。しかも、農道にクラウンなどの大型車で乗りつける若者が多い。
(左:宇和島駅から見る鬼ケ城【2005.10.28撮影】、右:宇和島駅での最終ランナー1068D) そのような世界で公共交通機関を利用するのは、高齢者と子供、そしてマニアの方々だけというのも決して大げさではない。その中で、果たして私のように「予土線がネックになって四国一周が難しい」などという資格は当然ない。が、この予土線は本来ならば廃止指定を受けて然るべき路線なのである。たまたま、並行する道路が未整備ということで廃線を免れているだけなのである。JRになった今、沿線の道路が完備された後にどうなるのかはわからないが、四万十川にかかる巨大な工事中の橋桁を見ると、どうなるのかと心配になる。 かつては、宇和島からは宿毛まで線路敷設の構想があった。平成4年に宇和島に転勤になったとき、宇和島市の地図を見たら、宇和島駅でスイッチバックして丸山公園の山をトンネルで抜けていく予定線を見た。宿毛まで延伸すれば、土佐くろしお鉄道へとつながる。が、もうそれが実現することはあるまい。それどころか、今は土佐くろしお鉄道窪川〜宿毛線が危うい。半年前の事故以来、債務超過で、土讃線からの特急の乗入中止の話さえ聞く。松山近郊では、公共交通機関の復権のさまざまな取り組みがされているが、このあたりでは考え方を根本的に変えない限り、公共交通機関は先細りを続ける。平成4年当時、吉田〜宇和島〜津島間のバスの運転本数を増やして、地方では珍しいと言われた宇和島自動車も、現在はその方策を伊予鉄道に奪われ、現在は減少の一途をたどっている。暴言なのは承知で言わせていただくならば、例えば公共交通機関と並行する路線を自家用車で利用する者に対して税金をとるなどの施策をとらない限り、公共交通機関は滅亡への道をたどることになると思う。などと、無謀なことを考えながら15時21分宇和島に着く。かずまるは今回も終点まで熟睡だった。 10月30日(日)宇和島〜松山間1068D特急宇和海18号 いよいよ、今回のバースデイ切符も最終ランナーとなった。列車は、一昨日と同じ「どきんちゃん号」、ご丁寧に、グリーン車の特権である毛布が一昨日に私が戻したままの状態だった。ということは、毎日クリーニングはしていないということが明らかになった。
(左:立間〜下宇和間の法華津峠を登る【2005.10.28撮影】、右:終点松山駅) 宇和海18号でもかずまるは熟睡モードに入った。しかも、私がとろとろとし始めた伊予大洲付近で目が覚めたらしく、たたき起こされてしまった。そして、いよいよこの旅も終わりを迎えた。17時11分、松山到着。今回もまた、全てが終わったような気がした。そんな私の思いをよそに、かずまるは「当分(JRには)乗りたくない」とのたまった。では、来年はやめるか?と言ったら、また乗りたいと言う。まあ、それでよいではないか、と思いながら、松山駅の改札口を抜けたのであった。 |